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アサーションの第一人者である平木典子先生にお話を伺いました

アサーションの第一人者である平木典子先生にお話を伺いました

*アサーション:さわやかな自己主張

~人はその人のままでいい。そして、人とのかかわり合いの中で「ありのままの自分」に気づくことができます。平木先生がどのようなきっかけでアサーションに関わり、どのような思いを大切にしてこられたかをお話しくださいました。平木先生にとって、アサーションとは単なる技法のことでなく、魂の叫びであることに改めて気づかされました。(聞き手:JCCA上坂浩史、片山俊子)

 

カウンセリングに出会い、「不公平感」を感じない世界を体験する

―先生がアサーションに進まれたきっかけについて、お聞きかせいただけますでしょうか。

私は1959年(昭和34年)に津田塾大学の英文科を卒業しました。当時、英語の先生の仕事はたくさんあったのですが、もっと社会的なことをしたいという思いがあったので、卒業後はとりあえず文科省の翻訳関係の研究所で働いていました。でも、「やっぱり教育関係のことをしたい」という気持ちが強かったのです。そのとき、たまたま津田塾大学の学生部からお声をかけていただき、学生相談の仕事をすることになりました。このとき、まずカウンセリングに出会ったのです。

―学生カウンセリングですね。

そうですね、ただ当時はカウンセリングという言葉は、誰も知らなかったのですよ(笑)、そんな時代でしたね。1955年ごろアメリカから民主化教育の使節団が日本の大学で2年間活動したのですが、その記録が津田塾大学の学生部にあったのです。「こんなことがあったんだ!」もう知りたい一心で、記録誌を読みました。カウンセリングの本も1冊だけありましたね。「カウンセリングを勉強したい。でも、日本では勉強できることころがないので、アメリカに行きたい」と上司に相談しました。「カウンセリングを勉強しにアメリカへ行きたい」と父母にも言ったら、二人ともきょとんとしていました。「あなた、何がやりたいの?カウンセリングって何?」

―そうだったのですね。その後、どうされたのですか?

先ほどお伝えした記録誌の中で一番感銘を受けたのがアメリカ中西部にあるミネソタ大学のウイリアムソン教授でした。教授に直接手紙を送ったのです。そうしたら、アメリカへ来ることを勧めてくださって、結局、フルブライト留学生(学費、旅費支給)として留学しました。ウィリアムソン教授に学べて、本当によかったです。何て言えばいいのかな、カウンセリングだけでなく、もっと大きな意味でよかったのです。

―もっと大きな意味とは何でしょうか?

私は、「不公平」ということにこだわってきました。子どものときからずっと、です。そういう意味で、教授は本当にフェアな方でした。1950年代にアメリカへ行くと、ほんとめずらしいことだらけだったのですよ。先生と生徒がフラットに、対等に議論しているのですから。そういう場所に2年半いることができ、日本ではできない体験ができました。その後帰国し、また津田塾大学の学生部に戻りました。

―また学生部に戻られたのですね。

そうなんです。そしてある日、各大学が出席する学生部の会議に部長の代理で出席することになったのですが、そこでアサーションの原点となるできごとがあったのです。

 人との出会いがアサーションにつながる

その学生部・課長会議では、私は黙って話を聞いていました。ところが、だんだん腹が立ってきまして。。当時は学生運動の真っ最中だったのです。学生をどうやって取り締まるか、どうやって大学に機動隊を入れるか、という話ばかりだったのです。学生部の仕事は英語ではstudent personnel work(学生という人事に関わる働き)といって「学生側に立ち、学生のためになることをする」ところであるはずなのに。。

 ―そのような思いがあり、だんだん腹が立ってきたのですね。

そうなんです。それで、会議が終わる直前に、「すみません。。」と思わず口に出して言ってしまいました。代理出席の私が発言するべきでないと思っていましたが、言わずにはいれなかった。。「学生を捕まえるだの、排除するだの。。そんな話を聞いていると。。何がなんだかわからなくなります。。」そしたら、それを聞いていた立教大学の学生部の方々が声をかけてくださったのです。「あなたの話は実にまっとうな意見だ。あなたの話をもっと聞きたい。」その後、立教大学にカウンセラーとして来ないかという話になり、大学を移ったのです。

―「言わずにはいれなかった思い」は最初におっしゃっていた「社会的なことをしたい」気持ちと強くつながっているのではと思いました。いかがでしょうか。

はい、まさにつながっているんですよ。聞いてくださって、うれしいです。当時、勤めていた津田塾大学でも、それはたくさんの学生がデモに行ったんですよ。大学側としては、デモの中で押しつぶされて死者が出るような危険な状況もあって、大丈夫かと思うわけです。

―終戦からまだ20年もしないころで、今とはまったく違う空気があったのだと思います。入ってくる大学生も含めて、世の中のほとんどの人が戦争と戦後の大きな変化を経験している、そんな時代です。時代の影響は計り知れないのでしょうね。

計り知れないですね。小学校の教科書の文章が黒く塗りつぶされたりした、そんな時代を体験していますから。私は満州生まれで、小学校2年生のときに終戦を迎えました。その後、着のみ着のまま日本に帰ってきたのですが、引き揚げですから教育どころでなく。。そんなことも含めて、もうあらゆることが影響していますね。

先ほどの「言わずにはいれなかった思い」は、小学生くらいの小さいころからの思いが関係しています。「不公平感」ですが、そのことを母に話したら、「大きくなれば分かるから」と答えてくれませんでした。「とても大事なことだから、後で考えなさい」と言われたことがムクムクと出てきた感じです。私は、とても引っ込み思案な子どもだったのです。父は私のことを気に入ってくれていたのですが、「お前が男の子だったら」とよく言われました。そんなこともあり、不公平には敏感でしたね。

―意外にも、引っ込み思案な子どもだったのですね。

それが小学校4年のときに、なぜかわかりませんが、クラスで弁論大会の出場者に選ばれてしまったのです。そのとき、「私の家族」というテーマで話し、世の中の役に立つことをしたいと言いました。なぜか学校代表にもなってしまったので、自分としては一生懸命練習したんです。それで自信がつきました。もしこの経験がなかったら、今の私はなかったでしょうね。そんなことがあって、自信が少しついて、高校のときにも弁論大会に出たりしていました。

―大きな変化ですね。

私は思うんですよ。きっかけがあれば、誰だって何かできるようになる、と。

 

―津田塾大学の学生部から、立教大学に移られました。いかがでしたか?

立教大学はミッションスクールなのでアメリカの大学教育の伝統を受け継いでいて、また当時からアメリカの先生もたくさんおられたので、とても自由な空気がありました。学生相談所でカウンセリングも行いながら、社会学部社会学科でカウンセリングを教えていました。立教大学の当時の学長は倫理学の先生だったのですが、理念を持って仕事をされていて、教職員たちにとてもよい影響を与えておられ、みなとても自由に仕事されていましたね。

 

―素晴らしい方ですね。

はい、ほんとに素晴らしい先生でした。私の話も本当によく聴いてくださりました。その先生が学長のときに立教大学に行くことができて、本当に恵まれていました。今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

 

―その頃のカウンセリングはどのような仕事だったのでしょうか。

今のカウンセリングルームとは違って、何でも屋でしたね(笑)。まあ、学科の選択、友人関係、将来の仕事の話が多かったので、相談内容という意味では今とそんなに変わらないかと思います。修士をとっていたというのもあると思いますが、他の大学ではカウンセラーは「職員」の扱いでしたが、立教大学では「教員」として仕事することができました。その後、日本女子大が心理学科をつくるときにカウンセリングを教える教授として着任することになりました。

 

―アサーションにはどのように出会われたのでしょうか?

アサーションが心理学の中にあるのは知っていたのですが、トレーニング体系が確立されていることは知らなかったのです。そのころ、幸いなことに年1回くらいはアメリカの学会に出席していたんです。お昼ご飯をみんなで食べているときに、アサーション・トレーニングの分科会に参加している方たちに出会ったのです。書籍を2冊手に入れて持って帰り、2年半後に研究休暇をもらってカルフォルニアに行ってアサーション・トレーニングの勉強をしました。そして、トレーニング体系を日本人向けにつくって、大学で希望者を募ったのです。「アサーショントレーニングやりたい人、この指とまれ」と(笑)。1982年(昭和57年)のことです。

 

あるがままの自分でいい。自分の思いを「アイ(私)メッセージ」で伝えよう

 ―改めて、アサーションとは何でしょうか?

誰でも思ったことは言っていい、という基本的な考え方の上に、「女の子はおしとやかにすべき」など非合理的な思い込みをなくすなどの内容と練習メニューをアメリカで学びました。それを日本人向けにカスタマイズしたのです。

 

―「誰でも思ったことは言っていい」と「非合理的な思い込みをなくす」は、特に広めたいと思われたのでは、と思いました。

まさにそうですね(笑)。今は変わってきていて、考え方が合理的か非合理的かはその人が生まれ育ったところで醸成されているので、それを変えるのではく、まずそれに気づいてもらうことが大切、という考え方になっています。その人が気づいて、変えたいと思えば人は考えを変えますよ。

 

―先生がずっと思われていた「不公平感」の改善につながる、そのような思いもあったのでしょうね。

そうですね。アサーションの考え方は、「あなたも私も大切にする」です。アサーションを学んだことによって、「あるがままの自分でいい」ということを認識して、それを広めていければと思うようになったわけです。

 

―ハラスメントの研修内容は、する側に対するものが多いですが、今のお話を伺っていると、される側が「イヤだ」と言えるようになることが大切で、研修などの内容もそのようにできるといいなと思いました。

まさにそうですね。ハラスメントとは、人権侵害のことです。ともすとと、それは、「する側」への内容になっているんですよね。

人が自分を大切にするのって、難しい。どうしてもダメな部分にこだわってしまう。でも、誰でも自然に成長しています。自分が思っていることを、自分なりに「こうなんです」と言うことによって、人は自分の思いに気づくことがあるのです。自己理解は、自分だけでは難しいですよね、人間は不完全だからこれが正しいということではなく、「私はこう思っているのですけれどねぇ…」と「アイ(私)メッセージ」で言えることが大切です。

現代は情報化社会でしかもコロナ禍となり、情報を交換するだけのつながりはあっても、それ以上の深いところまで話さない傾向にあるようにも思いますね。

 

―最近の若い方も人の顔色に見る人が多いようにも思えます。情報化社会のネガティブな面かもしれません。

やっぱり、「私はOK、あなたはNot OK」の人が増えているのですよ。それも、面と向かって言えない人が増えていますね。

「あるがままの自分」は、情報が多いが故にわかりづらくなっている面もあると思います。難しいですが、やはり自分と向き合って自己理解を深めることが大切です。でも、自分だけでは難しいんですよね。情報のやり取りだけでない、お互いを深めて気づき合える機会が増えるといいのですが。

 

―本音で話す機会、むかしと比べて減っているのでしょうか。

いいえ、むしろむかしの方がもっと本音で話していなかったかもしれないです。今の方が言える環境になったのではと思います。

―うまく自分を伝えるコツ、は何でしょうか。

やはり、「アイ(私)メッセージ」ですね。良い悪いでなく、私はこう思っている、という伝え方、正々堂々、自信満々で言うのでなく、「こんな風に(私は)思うんだけどね」くらいの感じで伝えるのがよいかと思います。

「自分が自分らしく」、「みんな違ってみんないい」のです。そして、思いは口にして言ってみる、口に出して初めて気づくこと、たくさんあるのではないでしょうか。

お互いにつながりをつくって、じっくり話ができる関係が大切ですね。情報交換だけの関係でなくて、ですね。

 

―今日は貴重なお話をありがとうございました。

 

インタビューを終えて:

アサーションは、平木先生にとって単なる技法・スキルでなく、生き方そのものであり、魂の声である、そのように感じました。スキル的なことだけでなく、アサーションにこめらてた「思い」を伝えていきたい、そう思いました。今回のインタビューでも、思いをお伝えできると幸いです。

インタビュー当日は午後から強い雨になり、先生は午前に遠方からの移動後でのインタビューでした。そのような中で、1時間のお約束のところを結局2時間お話しくださり、恐縮すると同時にとても感謝しています。(JCCA 上坂浩史)

『言いにくいことが言えるようになる伝え方』や何度も読み返しているご本の中の印象に残った箇所についてお話しさせていただき、本当に至福の時間を過ごすことができました。アサーションに出会い「自分とつきあえるようになった」私ですので、微力ながら他の方々のお役に立てればと、気持ちを新たにいたしました。ありがとうございます。(JCCA 片山俊子)

 

プロフィール

1959年津田塾大学英文学科卒業後、ミネソタ大学大学院に留学し、カウンセリング心理学を専攻(教育心理学修士)。帰国後、カウンセラーとして活躍する一方、後進の指導にあたる。立教大学カウンセラー・教授、日本女子大学教授、跡見学園女子大学教授、統合的心理療法研究所(IPI)所長を経て、2019年より日本アサーション協会代表。臨床心理士。家族心理士。2023年1月に『言いにくいことが言えるようになる伝え方』(ディスカヴァー・トゥエンティワン社)を発刊。他にも著書多数。日本におけるアサーション・トレーニングの第一人者である。