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直感を信じて、自分らしく生きる 樋渡優子(株式会社AsMama 事務局スタッフ)

樋渡優子さん(株式会社AsMama 事務局スタッフ)
樋渡優子さん(株式会社AsMama 事務局スタッフ)

軽やかなフットワークで国内外においてキャリアを重ねる樋渡さん。アフリカから帰国後に、間髪入れずに富山県舟橋村に移住を決めた決断力には驚かされます。何が樋渡さんを動かしているのか?自分らしく生きるヒントが満載です。

 

郷に入っては郷に従え

― アフリカから帰国されて3日後にはお仕事に復帰されましたが、どのように気持ちを切り替えていらっしゃるのですか?

今回は会社の所属を残したままアフリカに赴任したので、少し前から日本社会に戻るんだ、戻るんだと、少しずつ意識していましたね。そうしないと、ブルキナファソのスピードと日本のスピードは違うので。あとは、日本のきっちりとしたところを少し意識するようにしましたが、いつも「その場に入ったらその場に慣れる」をしているので、そこは今回も同じです。 

 


― 3回目のアフリカ行を決めたのは、何か強い思いがおありになったのですか?

青年海外協力隊として、ブルキナファソの隣のニジェールという国に2000年から2年半、行っていました。初めての西アフリカでした。そのときに、そこの土地に住みそこの人たちと一緒に仕事をする、一緒に何かを成し遂げることを、すごくいいな、と感じたのです。

そこでの経験、楽しさを知っている、というところでしょうか。人が温かい、ホスピタリティがあるんです。だから、行けば受け入れてくれる。まあ、国自体はとっても貧しいんですが、人々はすごい働き者なんですよ。そういう人柄も理由ですね。そういう楽しさを知っているので、募集を見つけたときに、家族と一緒に赴任したら、私にとっても家族にとっても、新しい経験ができるんじゃないかと思ったのです。迷いはありませんでした。

ブルキナファソの村の風景
ブルキナファソの村の風景

― ワクワクとした気持ちでいかれたのですね。多くの人は、やってみたいと思っても、恐さ、不安、迷いが生じて、なかなか実行に移せないと思います。行かれたらちゃんと現地に馴染んでいらっしゃるのもすごいですね。

そうですね、ブルキナファソは体験した国だから、知識がなかったわけじゃないので…なんか、もうポーンと飛び込んでいけました(笑)。夫がブルキナファソ出身なので、私の姓は「サワドゴ樋渡」なのですが、「サワドゴ」は、ブルキナファソでは「佐藤さん」みたいにすごく多い名前なんです。だから、「サワドゴ」と言えば、ブルキナの人なのね、と、みなさん思ってくれたりします。

ブルキナファソは、家族環境とか、子どもをだれが面倒を見てくれるだろう、という悩みは絶対にないんです。向こうでは、誰かしら面倒見てくれます。主人が家にいないときでも、家族、身内の方がみてくれます。上の子が下の子を見るというのも、向こうでは習慣的なことです。あとは、子ども自身がどれだけ適応できるかが未知数でしたが、結果的には、あまり違和感なく本人もブルキナファソの社会に入って行けました。子どもは言葉を覚えるのも早かったです。私自身があまり心配せずに赴任し、子どもも心配なく、結果オーライでした。

ブルキナファソの家族と
ブルキナファソの家族と


自分の感性を信じて、先ずは飛び込め

― なんですか、ひょいひょいっと、とても簡単に選択しているような印象を受けましたが、決断するにあたっての基準や大事にしていることをお聞かせいただけますか?

私の原点は、高校生の時の修学旅行にあるんです。神奈川の高校ですが、たまたま私たちの年だけ、修学旅行が岩手県の衣川村での農村体験だったのです。各農家に分かれて泊まり、2泊3日、秋だったので稲刈り、収穫を手伝いました。初めての農業体験でした。稲の刈り取りのお手伝い、かさがけをしたり、休憩のときにアンパンを食べたりして。いいなぁって思いました。帰った後に、収穫したお米を送ってくれたんですよ。その味は、今でも忘れません。今まで食べたことのないおいしさでした。「こんなことができる場所があるんだ」と思いました。そこからは、農業一本ですね。

そのときに感じたものとか、人と触れ合ったこととか、私はそういうことを大切に思って生きてきたのだなと思います。

そういったことをさせてもらったから、新しいところにも、ポーンって行ってみようというようにできるのかもしれないですね。あの経験がなかったら、どんな道歩んでいるか…全く違っていたかもしれません。 

背丈の倍にもなる穀物・ミレット
背丈の倍にもなる穀物・ミレット

― 人生については、ずっと先まで考えて選ぶというよりは、その時その時でしょうか。

その通りです。キャリアプランは、ないですね(笑)。アフリカから帰ってきた後に、じゃあ国内で協力隊にかかわる仕事してみよう、その後、もう一度海外に出てみよう、など。もちろん、国連など国際機関で働く希望を持っている方は、若い頃からのキャリア形成が必要かもしれませんが、私にはその着想はありませんでした。

短大で農業を学んだ後に、農業研修でハワイに行ったり、沖縄に行ったり。農業漬けでした。その後、西アフリカの二ジュールに青年海外協力隊で行ったのです。ほかの世界も見てみたい、日本じゃないところに行ってみよう、と。

農業は、すごくやりがいがあります。大学で農業を学んでいたときから感じていました。おいしくて安全なものを生産するということが、一番の基盤にはあります。ほかにも、自分一人でなく、人と一緒に何かを作り上げることも好きです。ボランティアを経験して、自分にできることは限られているけど、人を支えることへのやりがいは、今でも感じます。縁の下の力持ちでやりがいを見いだせますね。


― 人のためという気持ちですね。

はい。それに追加して、人と楽しんじゃおう、っていう気持ちです。

― そのような姿勢で地域社会に関わりたいと思われたのですね。

沖縄にいたとき、「結」という地域の共同体があることを初めて知りました。そのときは、すんなり溶け込んでいけたわけでもなかったのです。ホストファミリーと一緒に参加しましたが、どうしてこんなことをやるのかなと思っていました。あのときは、意味が分かっていなかったですね。今思えば、もっと積極的に関わっておけばよかった、と思います。

― アフリカに行ってから、わかるようになったのでしょうか。

そうです。アフリカの村は農業が基盤になっていて、生活が農業に直結している。家族以外の人も一緒にみんなで作業しています。農業は単に仕事でなく、生活の大切な基盤なのです。ニジュールでそのような在り方を知り、惹かれました。

樋渡さんといつも一緒に働いた頼りになる同僚
樋渡さんといつも一緒に働いた頼りになる同僚

― 現地に行かないとわからないこと、まだまだありますね。

日本でも最近はわりとアフリカの情報もメディアで扱っていますが、実際に見ると違うことはまだまだいっぱいあります。初めてのブルキナファソ赴任中に結婚したので、向こうでの家族の習慣とか、よくわかりました。しつけはどうする、家族の関係はどういう風にするのかなど、そういうことは日本でいくら考えてもわからないことです。

息子の教育もそうですね。日本の教育とフランス語圏の教育、どちらかに拠点を置くべきか、などです。ブルキナファソは、カリキュラムも教え方もかなり違います。向こうでは、先生が鞭持って見回るんですよ。日本よりあくせくはしていないけれど、フランス式ですから普通の公立中学でも試験があります。どちらがいいかは、わからないですね。

― あちらに残ることも考えたのですか?

日本の核家族と違い、大きな家族がいるという安心感がありますね。反面、マラリアやデング熱などの病気もあります。仕事でいくときは心配ありませんが、一般人として行くときは、そのような社会保障は行き届いていません。向こうにいれば、日本の社会に縛られることなく自由という面はありますが。


今こそ大切にしたい、共にあるということ

― ブルキナファソ初めての赴任から帰国後に、子育て支援の会社(アズママ)に入られました。農業と関係ないですが、選んだ理由は何ですか? 

やはり、結婚して出産して、自分も育児をするようになったことが一番のきっかけですね。近くの地域の友だちと地域の子育てのサークルを作ったり、地域にも子育てを支援してくれるボランティアさんがいたり、子育てのことを手段として使いながら地域活性化するというということをすごく身近に感じているときに、友人から紹介されたのです。

― 今までのことと、何か共通点はありましたか?

西アフリカの国々は地域のつながりがとても強いのです。日本も、60~70年前はそうだったのかもしれませんが。家を建てるっていっては集まったり、農作業を一緒にやったりとか。地域にうまく入らないと生活していけないのですが、考えてみたら、今の会社(アズママ)の仕事内容はこれまでやってきた地域共助と重なりますね。

ブルキナファソっていう国は貧困って言われているけれども、人をもてなす心の温かさだったり、心の豊かさがあります。まだまだ知らない方が多いので、伝えていきたいですね。― 現在は、富山県の舟橋村にお住いですね。

私は、都会ではないところが好きなんです。一応、横浜出身ですが(笑)。やはり、その土地に飛び込んでみないと、そこの本当の生活とかわからないですし。ブルキナにいるときから舟橋村の情報は得ていたので、会社にも相談して、帰国してから、私の日本の家族に話したら大反対されました。あなたは子どもの将来のことを考えているのか、友達ができなかったらどうするの、など。でも、ブルキナファソでやってきた感覚で言えば、私の息子は物おじせず誰とでもコミュニケーションをとれる方なので、どこへ行っても大丈夫と思っていました。

― 舟橋村のどのようなところに魅力を感じたのですか?

行政による単なる子育て支援ではなく、住民と一緒になって子育ての共助を生み出し、村を発展させることをどのようにやっていけばできるのか、興味がありました。

やはり、「地域活性」というキーワードが好きですね。すごく興味はあります。今、地方創生とか、頑張っている人がいることを見聞きします。日本の社会が元気になるのは地方からじゃないかなと思っていて、日本に帰ったら、何かしたいと思っていました。

― 一生懸命生きているからこそ、そのような情報が入ってくるのでしょうね。

地方でどんなことをやっているかは、ちょっと調べればわかりますから。そういう情報が目に入ってきたら、「何かな?」と見ています。好奇心旺盛なんですかね。 

ブルキナファソの民族の織物で仕立ててもらった服
ブルキナファソの民族の織物で仕立ててもらった服

― 共通項、軸となるものは、人のために、人と一緒に楽しみたい、というお気持ちですね。樋渡さんは、一人で決断し、決めてから周囲に話すタイプですか?

そうです。だから、舟橋村に住む件では「おーい、ちょっと待て」なんていうことになってしまって(笑)。ニジェールに行ったときから、家族には決めてから話をしていました。自分が「ピンと感じたもの」は、実現のために自分で行動して決断しちゃいます。

ただ、意思ははっきりとしているのですが、「こういうことができます」などは言えないのです。行ってみてどうなるか、ということも大きいですから。「行ったら何かできるんじゃないか」と考えて、飛び込んでいます。今まで、外れはなかったと思っています。どこかで1つ1つ自分の糧になると思いますから。

― 最後に、いろいろ迷って行動に移せない、踏み出せないという人へのメッセージをお願いします。

メッセージなんて、大それたものはありませんが…私は興味のあること、「これ、好きだな」と、直感で感じることを今まで選択をしてきました。いろいろな情報がありますが、自分なりに「あ、こうかもしれないな」や「これならやっていけるかも」ということを見つけられるといいのではと思います。


ーー樋渡優子さん プロフィールーー

サラリーマン家庭に育ったが、高校の修学旅行にて「農業」に興味を持ち、農業短大に進学。卒業後、実践農業を学ぶためにアメリカ(ハワイ州)や沖縄で実習を数年間行う。その後、青年海外協力隊にて西アフリカ・ニジェール国に赴任し、現地の人々と農作業をして一緒に生活をする。帰国後、国内の国際協力分野で働いた後、西アフリカ・ブルキナファソに赴任し、青年海外協力隊員の調整員として3年間勤務する。その間、ブルキナファソの人と結婚。帰国後、男児を出産。(株)AsMamaに入社。息子が小学校1年生の時、再度ブルキナファソに農業プログラムオフィサーとして赴任する。2019年夏に帰国。秋には日本一小さな村「舟橋村」に移住。現在、「子育て共助のまちづくり」に従事中。

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インタビュー担当:片山俊子、上坂浩史書記:一言映子

インタビューを終えて

スティーブ・ジョブズ氏のスタンフォード大学卒業式でのスピーチを思い出します。「何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず。ほかのことは二の次で構わないのです」…樋渡さんのお話にも、背中を押されました。(片山)


インタビューを終えて、樋渡さん(右)と片山俊子
インタビューを終えて、樋渡さん(右)と片山俊子